愛着の問題や、児童虐待を取り扱った小説を読む機会は多いです。
新たな気づきを与えてくれますし、一流の作家の使う言葉や言い回しが、自分の説明したいことをズバリ表現してくれていることもあるので、カウンセリングの仕事にも役立ちます。
とはいえ、これらのジャンルの小説はありきたりな内容のものや、機能不全家族で育った人間に対する理解が間違っているものも多いです。
愛着の問題を抱えた人が読んだら「自分はおかしいのか?」と感じてしまい、悪影響なのではないかとさえ思うことがあります。
そんな中で、桐野夏生の『砂に埋もれる犬』はフィクションですが、機能不全家族の連鎖や女性を支配したり、搾取する男性がどのように生まれるのかということを、よく理解できる小説です。
また、家族に対する怒りや、冷徹な感情を周囲に理解されないというアダルトチルドレンも、どうして周りの人間はそうなのかというヒントを得られます。
以後、内容に関する記述がありますので、読んでない方はネタバレに注意してください。
『砂に埋もれる犬』のあらすじ:虐待された少年がまともな里親に引き取られるが…
主人公は、12歳の優真という少年で、母親と異父弟と一緒に、母親の彼氏の家で暴力やネグレクトをされながら暮らしています。
ある日、あまりの空腹に耐えかねて、コンビニの店主に廃棄する弁当をくれるようにお願いします。そこから交流が始まり、母親の彼氏に殴られ痣ができたときもコンビニに行きました。
それを見た店主が通報して保護され、施設で暮らすことになります。その後に、コンビニ店主夫妻が優真の里親になると申し出て、一緒に暮らし始めます。
しかし、他人を信用することのできない優真は、養父にも養母にも心を開くことができません。
さらに、好きなクラスメイトから拒絶されたことで「痛めつけたい」「屈服させたい」という歪んだ執着心まで生まれ、その行動がエスカレートしていきます。
そして、ハッピーエンドともバッドエンドとも取れるラストを迎えるのです。
⇒【書評】『むかし僕が死んだ家』を「愛着」という視点で考察すると見えてくるもの
虐待を受けた子供の心が歪んでいく様
この作品で描かれているのは、虐待を受けた子供の心が歪んでいく様です。
幼い頃に、親との間に結ばれる特別な絆を「愛着」と言いますが、この愛着がうまく形成されないと、成長した後も自己肯定感が持てなかったり、健全な人間関係を築くことが難しくなります。心を抑圧するようにもなります。
主人公である優真の母親は、子供のことよりも、自分の欲望を優先する人間です。コロコロと付き合う相手を変え、そのたびに優真を連れて、その相手の家に転がり込みます。
そして、そういう母親が選ぶ男にありがちなことですが、どの男も連れ子である優真を母親と一緒に虐待します。当然、優真は安定した愛着を築くことはできませんから、心が歪んでいきます。
暴力を振るったり、搾取をしたりする大人になる過程
優真の心が歪んでいく過程は、現実世界でも恋人に暴力を振るったり、搾取をしたりするタイプの男性の子供時代によくあるものです。
たとえば、優真が怒鳴ったときに母親が少し後じさるシーンがあります。このとき優真は、母親が自分を怖がったことを見逃しませんでした。
そして、さらに攻撃を加えることで、立場を逆転させたのです。これは、自分より下の立場に置ける人間を見分けられた最初の成功体験といえます。
このような成功体験が誤った自信につながると、自分を守るためだけではなく、相手を支配するために使うようになるのです。
何を言えば喜ばせられるか的確に判断
それと似た能力として、何を言えば相手が喜ぶかを的確に判断できる、というものもあります。
作中でも、養母が自分の呼び方を「おばさん」で良いと言ったときに、「お母さんと呼びます」と答えて喜ばせるシーンがあります。
もちろん、これは相手のためを思ってではなく、利用するための行動です。このことは「気に入られれば、この家に、最低でも高校三年まではいられる」という心理描写からも分かります。
この能力も、家庭内にいる大人の機嫌を取り続けたことで身につけたものです。
従わない女は攻撃すれば良い
母親が父親から暴力を振るわれるのを見続けることで、「女は力で従わせるもの」という認識が刷り込まれることがあります。
優真も、母親が男から暴力を振るわれるのを何度も見ています。
また、母親に対する憎悪を他の女性にも投影し、攻撃しようともします。
優真が関りのある女性に対し、歪んだ感情を持ってしまうのも、面前DVと母親からの虐待によって形成された女性観によるものといえます。
最も背筋の凍るシーン
この作品は、暴力や搾取を許してしまう人間の心理も、巧みに描いています。
私が最も背筋が凍ったのは虐待のシーンでもなければ、優真がナイフで養父を刺そうとしたシーンでもありません。
養母が、優真を里子として引き取りたいという話を、児童相談所のワーカーに話しているシーンです。個人的にはこのシーンが最も怖いと感じました。
養母も養父も悪意は持っていません。優真を可哀そうに思い、里親になろうとしたのです。引き取った後に虐待をするようなこともありませんでした。
養母の持つ共依存の気質
しかし、養母が優真を里子にしたいと思った根底には共依存が隠れています。
里親夫妻には、脳性麻痺の娘がいましたが、一年前に亡くなっていました。
世話すべき相手がいなくなったことで、その愛情の向け先を失い、寂しさから不幸そうな相手を求めるのは共依存の人間によくあることです。
「求められることを求めている」状態といえます。
養母は向け先の無くなった感情を優真に向けることで、自分を満たそうとしているのです。
ワーカーから虐待を受けて育った子供を他人が育てることの大変さを説明されても、深刻に受け止めることもなく、ウキウキした様子になっていることからも分かります。
「可愛そうな相手を大切にしてあげている自分」を想像して、気持ち良くなってしまっているのです。
養母は自分でも意識していませんが、優真を「自分を慰めるための道具」にしようとしているのです。このシーンは本当に恐ろしいと思いました。
イネイブラーとしての養母
優真を引き取った後も、甘やかしすぎていることを養父から指摘されますが、養母はそれを認めようとしないところがあります。
甘やかしたり、悪い方向への手助けをすることで依存症者の回復を妨げる人を「イネイブラー」と言います。イネイブラーの中には、自分がそのような行動をしているのに、すっとぼける人もいます。
作中の養母は、まさに優真の回復を遅らせようとするイネイブラーになっています。
また、優真が児童相談所のワーカーを犯そうとしたときも、庇うような発言をします。悪いことをしても、「不幸な境遇なのだから仕方ない」と庇ってしまうのも共依存によくある傾向です。
直接的な暴力やネグレクトのように分かりにくいうえに、本人は良いことをしていると勘違いしている分、タチが悪いともいえます。
もしこの作品を読んで、養母に共感する部分があるなら、共依存に陥る気質を持っているといえるかもしれません。
アダルトチルドレンに押し付けられる価値観
虐待されて育ったアダルトチルドレンは、親に対する感情を周囲に理解されないことが多いです。
「どんなに嫌いと言っても親なのだから本心では好きなのでしょう」という決めつけをされて、うんざりすることもあります。
作中でこの理解しない人の役割を果たすのは、養父です。
「弟なんだから会いたいはず」、「友達をつくるべき」といった価値観を、悪気なく優真に押し付けます。
問題のない家庭で育った「悪意のない攻撃者」を体現しています。
不安定になっていく養父
しかし、養父も一緒に暮らし始める中で、共依存に陥りそうな場面が見受けられます。たとえば、優真が好きな子の家に不法侵入した際に、嘘のアリバイを証言しようとするところです。
少しずつ相手の罪に加担していくことで、共依存関係に陥るのは珍しいことではありません。
娘の死というショッキングな出来事がある中でも、コンビニを経営し続けなければならないという負担が、安定した精神を持っているはずの人間のバランスを崩したのかもしれません。
機能不全家族への第一歩を踏み出した
また、優真と暮らす時間が長くなる中で、口うるさく注意することも増え、その中で優真の実母を非難することも増えていきます。
これは障害を持って生まれた実の娘が先に死んでしまったことに対し、「自分は親としての役目を果たせたのだろうか?」という不安や、罪悪感が生じていることが原因と考えられます。
虐待する親を引き合いに出すことで、「それと比べたら自分は良い親だった」と安心しようとしているのです。
⇒【映画】『思い出のマーニー』の解説!アダルトチルドレンの再生物語としての考察
機能不全家族の連鎖
この小説では、機能不全家族が連鎖する様子も描かれています。
主人公の優真の母親もまた、子供時代に虐待されていたのです。これは、現実世界でもよくあるパターンです。
虐待されて育つことで、自己肯定感が育まれないと、自分の価値を低く見積もるのでダメな相手とばかり付き合います。
そのような相手と作る家庭は「機能不全家族」になる可能性が高いですし、子供時代に愛されなかったために、親になっても愛し方が分からないことがありますから、連鎖させてしまうのです。
語彙の少ない母親たち
それともう一つ、この小説を読んでいて、ハッと気づいた連鎖の理由があります。
作中では、優真の実母の亜紀について、感情を表現する語彙が少ないという描写があります。
たとえば、不快感や気持ち悪さを表現するときに「ゲロゲロ」という言葉を使います。
実は、この言葉を使う人間がもう一人いるのですが、それは亜紀の妹です。
「ゲロゲロ」というのは、80年代後半あたりに流行した言葉ですから、おそらく二人の母親(優真の祖母)がよく使っていた言葉なのでしょう。それがうつったのだと思います。
二人の実母も、語彙の少ない人だったのです。
機能不全家族が連鎖するもう一つの理由
実は、自分の感情を適切な言葉で表現できる語彙の多い人ほど、精神的に安定していることが研究でも分かっています。
言語化することによって、感情を解放してあげられるからです。
逆に語彙の少ない人は、自分の感情をうまく表現できないため、ストレスを感じやすく精神的な負担が掛かりやすいのです。
そのような人間が集まると、家庭内は常に緊張が漂い、子供はさらに感情を表現できなくなるという悪循環に陥るのです。
(余談ですが、感情を表現する語彙を増やしたい場合には、本を読むことが有効とされています)
心のどこかに満たされない何かを感じ続ける
優真は、里親のもとで暴力もなく、飢える心配のない環境に置かれても、心のどこかに満たされない何かを感じ続けます。
優真が必要としているものは何かと言ったら「無償の愛」です。
自分を犠牲にしてでも守ってくれようとする親の態度を見て、子供は自分がどれだけ愛されているのかということを知り、自分の存在価値を認めることができます。
しかし、優真の母親がそのような態度を見せることはありませんでした。それどころか、自分の恋人に気に入られるために、優真を殴るような人間でした。
つまり、優真は誰からも「あなたは存在しているだけで価値がある」というメッセージを受け取ることなく生きてきたのです。
無償の愛を受け取り感情を解放
安全に衣食住を与えられても満たされないのは、このように存在そのものの肯定がされないからです。肯定されないことで、自分の本心さえ抑圧し、自分でも気づくことができなくなるのです。
しかし、ラストシーンで養父をナイフで刺そうとしたときに、優真を犯罪者にはさせないと養母が身を挺して止めます。
このとき、養母は手を切ってしまい血を流しながらも、優真をしっかりと抱きしめ受け入れます。優真は生まれて初めて、無償の愛を受け取ったのです。
そして、今まで抑圧していた自分の感情を解放し、涙を流すことができました。
と考えるのが、素直な読み方だと思いますが……。
ハッピーエンドの結末といえるか?
物語の最後は、床に落ちたナイフを見ている優真の「もう二度と、手に取る気はなかった」という心情の記述で完結します。
一見するとハッピーエンドにも見えるのですが、これは読者によって受け止め方は変わると思います。
ラストのほんの少し前に、優真の祖母の葬式に一人で参列して帰宅した養父の肩が、清めの塩で汚れている描写があります。
これは養父が優真に塩を撒いた(縁を切りたい)という意思の表れにも見えます。
しかし、その後に刺されそうになったことで「この子が社会に迷惑を掛けないように、養父である自分が責任を持たなければならないのだ」という気持ちに変わったとも取れます。
それまで養父は、自分のことを「俺」とか「おじさん」と言っていましたが、最後は「お父さん」と言います。
これが「やっと本当の親子になれた」という気持ちではなく、「自分はもうこの子から逃れることが出来ないのだ」という、絶望と覚悟の表れの可能性もあります。
また、養母が自分を犠牲にしてでも止めようとしたのは、優真と共依存の状態になっているからという可能性もあります。
さらに『砂に埋もれる犬』の意味を考えると、個人的にはバッドエンドなのではないかという気もします。
『砂に埋もれる犬』は何を意味するのか?
タイトルの『砂に埋もれる犬』というのは、スペインの画家ゴヤの作品の名前です。(本人の没後につけられたものですが)
所蔵しているプラド美術館の説明では「死への必然性」に関連していると説明されていますが、本当は何を意味するのか、非常に謎めいた作品とも説明されています。
美術の研究者の間でも様々な解釈があり、運命に翻弄される人間を表しているという人もいます。
実際の作品に描かれた犬は、砂の中に埋もれ、顔だけを出しています。その表情は焦りや危機感よりも、諦めの表情に近いように見えます。
学習性無力感という諦め
犬に電気ショックを与える実験があります。
このとき、犬が頭を動かせば電気ショックが止まるように装置を設定しておくと、犬は学習して電気ショックが流れたら、頭を動かすようになります。
しかし、何をしても電気ショックが止まらないように設定しておくと、犬はそこから抜け出す試みを止め、諦めてそのまま電気ショックを受け続けます。
「何をやっても無駄」ということを学習したのです。これを「学習性無力感」といいます。
ゴヤの『砂に埋もれる犬』の表情は、まるで学習性無力感を持っているかのように見えます。
『砂に埋もれる犬』は誰なのか?
この学習性無力感を意識して、小説の最後の数行を読むとバッドエンドに見えてきます。
主人公の優真がナイフを二度と拾う気にならなかったのは「何をしても自分は変われない」という諦めを持ってしまったからとも解釈できるのです。
また、小説の中の『砂に埋もれる犬』は主人公の優真と考えるのが自然ですが、諦めてしまったのは優真だけではなく、里親や実母、弟の篤人なども同じと考えることもできます。
最後の結末に至るまでのそれぞれの心理をどう解釈するかによって、ハッピーエンドと感じるかバッドエンドと感じるかは違うと思います。


