【書評】『むかし僕が死んだ家』を「愛着」という視点で考察すると見えてくるもの

東野圭吾といえば、本を読まない人でも名前は知っているであろう超有名作家ですね。

『容疑者xの献身』や『新参者』など多くの著作が映画やドラマにもなっています。

私も多くの作品を読んでおり、いま本棚を確認しただけでも『放課後』や『眠りの森』『赤い指』などをはじめ10作品以上がありました。

どれも面白い作品なのですが、そんな中でもおすすめの一冊を挙げるとすれば『むかし僕が死んだ家』です。

推理小説なのですが、愛着やトラウマの問題も精緻に描かれています。最近までそのことに気づけていませんでしたが…

「伏線の張り方は尋常なものではない」

ミステリーなのでネタバレしないように注意しながら、説明しようと思うのですが、これから作品を読もうと思っている人は、注意してください。

ざっくりとしたストーリは、大学の物理学科で研究助手を務める主人公のもとに、昔の彼女から「一緒にある場所にいってほしい」という依頼がきて、そこに行くと誰も住んでいない不思議な家があり、この家は一体何なんだ?というものです。

この小説の一つの特徴は場所がほとんど変わらないことです。ずっとその「家」の中で推理が展開していくのです。

そして推理の本筋に関係する登場人物も主人公の「私」と元彼女の「倉橋沙也加」の2人だけ。

「場面の切り替わりがほとんどない物語を面白く書けるのは本当に筆力のある作家だけ」という話をどこかで聞いたことがあるのですが、この作品はまさに東野圭吾が天才作家であることをまざまざと見せつけてくれます。

巻末の解説で作家の黒川博行が書いていますが「伏線の張り方は尋常なものではない」のです。

少しずつ謎が解けていく中で、倉橋沙也加とその「家」との関係も分かっていくのですが、その時の寒気の立つ感覚がすさまじいです。

ミステリーや推理小説が好きな人にぜひおすすめしたい作品です。

トラウマの手がかりを見つけるために「家」に行く

『むかし僕が死んだ家』が出版されたのは1994年で、私が初めて読んだのも20年ほど前だった気がします。

当然、今の仕事はしていませんから、そのときは「ずっと同じ場所で男女2人が話しているだけなのに、こんなにも惹きつけられる作品を書けるなんてやっぱ東野圭吾は凄いなぁ…」という感想しか持っていませんでした。

しかし、最近、久しぶりに読み返してみたところ、実はこの作品は「愛着」や「トラウマ」の描写がかなり的確なものであることに気づきました。

作品中に「愛着」という言葉は出てきませんが、愛着というフィルターを通して読むと、それを意味する描写が多く見当たります。

そして倉橋沙也加はアダルトチルドレンといえるでしょう。

例えば、主人公に依頼を断られたとき「こんなに頼んでいるのにだめなの。ここまで打ち明けたのに」というセリフや、もうあなたには頼まないといった態度が出てきます。

このような言動は依存気質を持つアダルトチルドレンが相手をコントロールするときによく使う手段です。

他にも子供を虐待してしまうこと、学生時代に他の同級生が子供っぽく感じていたこと、そして同じような愛着の問題を抱えている「私」に惹かれたことなどは、アダルトチルドレンによくある特徴といえるでしょう。

この他にもアダルトチルドレンを感じさせる細かな描写が多くあります。

その「家」に行くことでトラウマの原体験を追求する

倉橋沙也加がなぜその「家」に行きたがったのか、というと本当の自分を知るためです。

彼女は自分の娘を愛せずに虐待してしまっているのですが、その原因が自分の子供時代にあるのではないかと疑っています。

なぜなら小学校入学前の記憶が全くないからです。

トラウマを抱えた人間がその原因となった原体験の記憶を失っているというのはよくあることです。

それを持ち続けることで心を壊してしまうからです。

しかし、その一方でその原体験を思い出すことで、トラウマが癒えるということもあります。

癒えないにしても、自分の中に生じる葛藤や複雑な心境を理解する手がかりとなることがあります。

倉橋沙也加はそれを得られれば自分が何者なのか分かるのでは?という期待を持ってその「家」に向かうのです。

主人公もまた愛着の問題を抱えていた

なぜ、倉橋沙也加はその「家」に行くのに、昔の彼氏である主人公に同行を依頼したのでしょうか?

同窓会で再会したこと、主人公が科学誌に寄稿した虐待に関する記事を読んだことが表面上のきっかけとしてありますが、真の理由はもっと深いところにあります。

この作品にはストーリーの中心となる「家」とは別に、もう一つの「家」が出てきます。

それは主人公である「私」が育った、建物としての「家」であり、両親と自分という関係としての「家」です。

それほど紙面を割かれてはいませんし、本編の推理とは関係ありませんが、主人公の「家」に関する描写は、愛着というテーマにおいて重要な意味を持ちます。

主人公もまた、機能不全な環境で育ったことを表現しているのです。

主人公は倉橋沙也加と初めてセックスをしたときに、「誰でもしていることだ。衣食住と同じさ。重大な意味を持たせるなんてくだらねえ」と言います。

セックスをしたからといって親密さが増すわけではないと思い込もうとするのは、回避型の愛着スタイルを持つ人間によくある傾向です。

「お互いを束縛せず、相手に甘えず、関係を終わらせたくなったら素直にいう」関係を求めるのも回避型に見られる特徴です。

主人公も不安定な愛着を持っているのです。

だからこそ、倉橋沙也加は本能的に自分を理解し救ってくれるのは主人公だけと感じ、頼ったのです。

他の男性と結婚しているにも関わらず、依存は解けていないということです。

そして、これは依頼に応じてしまう主人公も同様です。単なる未練ではないのです。

つまりこの物語は、親密になることの恐怖と、依存せざるを得ない不安を抱えた二人の物語なのです。

双方が不安型と回避型の両方の特徴を持ち、その間を行ったり来たりしているのです。

過去を知ることは良いことだったのか?

この作品は推理の部分ではきちんと完結していますから、スッキリとした読後感があります。

ただし、愛着の問題やトラウマの克服という面では決してそうではありません。

過去の自分を見つけたことが良かったのか悪かったのか、人によって解釈は分かれるところです。

これは作者の意図なのかもしれません。

主人公も「倉橋沙也加」も過去とうまく折り合いをつけることができました、という結末にするのが物語としての収まりは良かったのだと思います。

しかし、そのような結末にはされていません。少なくとも自分はそのように読めました。

これはおそらく、作者が作品を執筆するにあたって、資料を調べたり、専門家を取材をする中で、そんな簡単にトラウマや愛着の問題が解決するわけない、という感覚を得たからではないかと思います。

この作品はミステリとして非常に面白いものですからぜひ多くの人に読んでほしいと思います。

しかし、何らかのトラウマを抱えている人は注意したほうが良いです。

感情を大きく揺さぶられる作品なのでしばらく後を引くかもしれません。